藤はなの窓
Column

2019.9.6
阿字池の水

前回のコラムでは、平安時代に宇治の地が貴族の別荘地として好まれた理由を、ここが山紫水明の土地であることを通じてご紹介しました。そこでは、特に自然の地形がつくりだしている豊かな水の環境が大きく影響していることについても、少し詳しくふれています。そしてこの水の豊かさこそが、極楽浄土のイメージを地上につくりだすうえで欠くことのできない広がりのある水面、つまり阿字池の築造を可能にしていたのです。

 平等院の境内の東側は宇治川左岸の堤防によって区切られていて、川の流れは目と鼻の先です。ですから、平等院が造営された当時、阿字池の水は宇治川から直接引き込まれていたのではないかと、多くの人が考えるのも無理はありません。しかし、平成2年から7カ年にわたって実施した浄土庭園の発掘調査によって、創建時にも宇治川と阿字池とは直接のつながりがなかったことがわかっています。また後年に描かれた絵図にも、池と川は明確に区切られている様子を見て取ることができます。それでは、満々と水を湛える池の水源はどこにあったのでしょうか?

地形的にみると平等院境内の大部分はかつての宇治川の氾濫原に相当する土地の上に広がっていますから、地下にも豊かな水の層が存在していて、それらが池底から沸々と湧き出る清らかな水をもたらしていたのではないかと考えるかもしれません。しかし、実際に発掘調査によって池底を調べた際にも、そのような水源はみあたりませんでした。一方、境内の南側に目をやると、そこには小高い丘のような地形があることに気がつきます。ちょうどミュージアムの鳳翔館と鐘楼があるところです。この地形は、宇治川の河岸段丘の一段目、最下層の段丘によって形成されたものであることがわかっています。そして、このような段丘斜面(段丘崖)の下部には、湧水が発生することが多いこともよく知られているところです。

少し具体的にみましょう。鳳凰堂の南側の翼廊と尾廊の間には、背後の段丘崖が迫ってきているところがあり、お堂をぐるりと取り囲む水面が、その部分だけ不自然に狭くなっています。水面の護岸に相当する部分には高さ2mくらいの石積みがほどこされていて、ここだけがかなり人工的に扱われていることがわかります。先代の住職であった故・宮城宏道によれば、今から60〜70年前には、まだこの石積みの下層からかなりの湧水があったということです。石積みにすることで斜面を安定させるとともに、石の隙間から水が湧き出てくることを促したのでしょう。

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上位の段丘面で住宅地開発等がすすんだ現在、この場所からの湧水は残念ながら確認されていません。現在の阿字池は、井戸から汲み上げた地下水によって給水がほどこされています。それでも平等院の浄土庭園を造営した先人が、この場所の自然がもたらす可能性を敏感に察知し、豊かな水源を活かすことによって、現世と来世を隔てつつ極楽浄土のイメージを映し込む水面を創出したことにかわりはありません。この土地の水の豊かさかがもたらしてくれた想像の世界が、現代にも受け継がれているのです。(文・宮城俊作)

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