藤はなの窓
Column

2020.9.26
間の効用

2020年4月以降、全世界で新型コロナウィルス(Covid-19)の感染拡大が顕著となり、一旦は収束に向かうのではないかとの期待もありましたが、再び猛威をふるいつつあります。おそらく、今後もこのような感染者数増加の波が幾度となく訪れることが予想されますが、私たちは感染のリスクを回避するための術を身につけながら、少しずつ従来の暮らしにもどっていくのでしょう。しかし、以前との決定的な違いは、万人が常に他者との物理的な距離感を相当程度に意識するようになり、そのことが条件反射のように作用する場面があちこちに発生するということです。「新しい生活様式」「ソーシャルディスタンシング」というやや無味乾燥な表現で共有されていることが、空間や場所に実態を伴って顕れてくるでしょう。これは、平等院のような宗教施設や観光地においても例外ではなく、本院でも拝観を再開するにあたっては、この点について十分に留意し、おいでいただく皆様にご協力をお願いしているところです。

さて、現代に生きるほぼすべての日本人がこれほどまでに他者との距離や密度ということを強く意識したことは、かつてなかったでしょう。それだけに、このことは新しい暮らしや環境の文化のようなものへと発展・昇華させていくこともできるのではないかと思うわけです。そのように考えた時、日本には「間(ま)」というとても魅力的な言葉があることに気がつきます。「間をあける」、「間(合い)をはかる」など、私たちがふだんの暮らしの中で頻繁に使うこの言葉には、改めて思い返してみると実に多様な意味が込められています。それだけではなく、間には、空「間」と時「間」の両方の意味をあてはめることもできます。ソーシャルディスタンスは、人と人のあいだの物理的な距離、つまり空間的な意味で使われますが、同じ場所でも時間をずらしていれば、やはり同じ効果が十分に期待できるわけです。つまり時間的なスペースをそこにつくりだしていることになるでしょう。

一方、間はそれをつくりだしている空間的な実体や時間的な事象とは異なり、それ自体は余白そのものです。しかし、その余白があるからこそ、その前後、左右、上下に存在する人や物事の関係に、無理なく折り合いをつけることができるわけでもあります。そしてその何もない余白にこそ、私たち自らが豊かな想像力を働かせることができる余地がもたらされています。鳳凰堂から阿字池を隔てた対岸に立つ時、御堂とのあいだには、時空を超えた間が存在していることになります。そこにこそ、歴史と文化を下地とした豊かな精神世界を垣間見ることができるでしょう。このたびのパンデミックがもたらした災厄を超えて、間の効用ともいえるものを、様々な場面で改めて実感できる日が来ることを願うばかりです。

(文・宮城俊作)

【SA-18】鳳凰堂俯瞰・南東から(1)-s[2].jpg

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