藤はなの窓
Column

2022.4.9
平等院堤のこと

本尊の阿弥陀如来坐像を背にして鳳凰堂の正面に立つと、眼前には阿字池の向こう側に宇治川の堤防とその上に繁茂する緑の風景がひろがります。さらにその背景には、川を隔てて当院の山号でもある朝日山とそれに続く仏徳山の稜線が、くっきりとした輪郭を描いていることがわかるでしょう。境内と宇治川を隔てるこの堤防は、いつの頃からか平等院堤と呼ばれるようになりましたが、創建時には現在のような高さがあったわけではないようです。平成時代の前半に行われた浄土庭園の復元整備事業では、現在の境内地だけではなく、堤の東側の河川敷に相当するところでも数カ所のトレンチが設定され、発掘調査が行われました。その結果、河川敷側の遺構面の状態が境内地のそれらとたいへん似通っていることが報告されています。つまり、堤を隔てて浄土庭園の領域が広がっていたと解釈できるわけです。その中にあって、この堤は宇治川の氾濫から寺院の堂塔伽藍を保護する機能を担いつつ、一方において対岸の山々と川がつくりだす雄大な自然と浄土庭園を柔らかくつなぐ役割をはたしていたでしょう。ところによって、阿字池から続く堤は緩やかにせり上がり、さながら河原の一部をなすかのように背後の川の流れに寄り添っていたのかもしれません。

 しかし、現在の宇治川から境内に続く河川敷と堤防の断面をよく観察してみると、想像されるようなおおらかさは感じられません。堤の部分だけがポッコリと浮き上がったような形状をしていることがわかります。この地域の歴史をひもといてみると、どうやら中世から近世にかけての治水事業によって、堤の上部に盛土がなされたようです。時代としては安土桃山時代に相当し、豊臣秀吉が宇治川下流で行った伏見城と城下町の建設に合わせて宇治川の流路を大きく改変する一大土木事業を行ったことがわかっています。主な事業の範囲は、現在の宇治橋より下流の地域にあたりますが、橋の上流においてもなんらかの手立てが必要であったのでしょう。いずれにしても、その時代を経て現代に至る間に、平等院堤の姿は少しずつ変貌してきたことは想像に難くありません。

 さて、この堤の上では、最近になって少しばかり変化がありました。堤と川の間に立地した民家に電力を供給するために、近代以降に設置されていた電柱と架空線が地中化されたのです。宇治川を管理する国土交通省や道路を管理する宇治市との長年にわたる協議と行政的な協力の成果だと言えるでしょう。これにより、鳳凰堂からの眺望景観を阻害していた要素は取り除かれ、堤を覆う木々の上には、対岸の山並みが美しく見えるようになりました。創建時、平安人が愛でたであろう風景に、少しばかり近づいたのかもしれません。(文・宮城俊作)

IMG_2241[1].jpg

最近の記事

鳳凰の卵
2021.9.1

フェノロジーということ
2020.12.28

間の効用
2020.9.26

コラム一覧へ戻る