時おり、鳳凰堂は寝殿造りなのですか、という質問をいただくことがあります。
平安貴族の頂点にあった藤原氏ゆかりの仏堂ですから、彼らの住まいであった建物の形式がそのまま仏堂にあてはめられても、なんら不思議はないと考えるのが一般的でしょう。
寝殿を中央にして、その両側に対屋が配置される形式は、どこか左右対称の鳳凰堂と似ています。
しかし、厳密にいえば両者は別ものです。
決定的な違いは建物の配置にあります。
西方極楽浄土の定義に従えば、浄土教の寺院において仏堂は東向きに配置され、彼岸と此岸を隔てる海の景色を模した池の水面が、その前面にひろがります。
一方、平安貴族の大規模な邸宅の建築形式では、そのほとんどにおいて、主屋であった寝殿が南向きに建てられ、その前面に修景のための池が穿たれていたことがわかっています。
この違いは違いとして、次に両者の共通点はといえば、これはもう建築と庭園の関係に集約されるでしょう。
主屋であった寝殿あるいは中堂の前面に配置された池の水面は、宗教的な意味合いの有無はさておき、共に建物をひきたてる視覚的な効果をもたらしていたはずです。
ここに示した鳥瞰図は、平安時代の摂関家の主邸であった寝殿造りの典型とされている「東三条殿」を復元的に描いたものです。中央の寝殿、両側の対屋、南側に広がる庭園の関係をみてとることができるでしょう。
平安貴族の邸宅の多くは、平安京の条坊制がつくりだす整然とした町割りの中にはめ込まれていました。
つまり、敷地に制約があったのです。理想とした建物と庭園の関係は、たとえば宇治のような土地に余裕があり、山紫水明の風景がひろがる郊外の別荘地においてはじめて可能となったのでしょう。
頼通が、父道長から譲り受けた宇治の別業を浄土教の寺院にあらためるにあたっては、自らが暮らす寝殿造りの形式を参照し、その理想像をそこに重ねて見ていたのではないでしょうか。
鳳凰堂を中心とする浄土庭園の空間構成は、平安貴族の風景観が色濃く映し出しだされているようです。
(文・宮城 俊作)
附図出典:住宅史研究会編『日本住宅史図集』より引用