『作庭記』をご存知でしょうか?これは一言でいえば、わかっているかぎりにおいて、世界最古の総合的ガーデニングマニュアルです。書かれたのは平安時代末期の11世紀後半、著者は橘俊綱(たちばなのとしつな)であるというのが現在の定説です。しかし現存する写本は鎌倉時代初期のものが最も古く、その意味ではわかっていないことも多いというのが実態でしょう。国の重要文化財に指定されているこの写本にも「作庭記」の表題はなく、この名称自体も江戸時代につけられたようです。
さて、この庭園書の内容ですが、マニュアルの意味にふさわしく庭づくりの心得から具体的なテクニックにいたるまで実にことこまかに記されていて、おそらくはその後の日本における伝統的な作庭技法の源流をなしているのではないかと思われます。たとえば冒頭には「地形により、池の様子に従い、因って生ずる所々に、趣向を廻らし、自然の山水を考えて・・・」という記述があり、さらには「国々の名所をおもひめぐらして、おもしろき所々を、わがものになして、・・・」などというくだりもあります。つまり、庭をつくる場所の特徴をよく見極めるとともに、自然の風景や名所の記憶をかたちにすることなどを指南しているわけです。また、約14,000字に及ぶ全文の後半では、築山、石組、池、遣水(流れ)、樹事(植栽)など、庭を構成する様々な要素のディテールデザインにまで言及していることは驚きです。
ここまで微に入り細にわたって記述するためには、著者にも相応の実践経験があるにちがいないのですが、著者と目される人物の素性を知れば合点がいきます。橘俊綱は平安時代後期の貴族ですが、実はこの方、姓は異なるのですが、平等院を開創した関白太政大臣・藤原頼通の次男にあたります。頼通が宇治の別業を寺院としたことに倣い、自らも宇治川の対岸、伏見に近い場所に建てた邸宅を後に即成就院という仏寺にしています。その過程において、父の宇治殿を参照したであろうことは容易に想像できるのではないでしょうか。
もちろん、俊綱が平等院とその前身である宇治殿の庭園をモデルとして作庭記を著したという確たる証拠はありません。しかし、極楽往生を願う平安貴族が造営した浄土教の寺院境内、あるいは自らの邸宅の様式であった寝殿造りと庭園に、理想とする自然と人の関わり方を映し出していたことはまちがいないでしょう。当時の庭園のほとんどがすでに遺構としてのみ存在する現在、作庭記に表現された「あるべき庭の姿」を、平等院の現存する庭園に重ねて見ていただきたいと願います。
(文・宮城 俊作)